8702(前編)

予約の時間は過ぎているのに、まだ私の名前は呼ばれない。それとももしかして、もう呼ばれたのだろうか?結婚を期に引っ越してきたこの街での新しい生活にはすっかり慣れたけれど、未だに新しい苗字で呼ばれることには慣れず、自分が呼ばれていることに気が付かないことがまだある。新しい苗字。そう、苗字といえば、徹からのプロポーズは少し変っていた。

当時付き合いはじめて3年目の徹は、その前の年くらいから急にサッカーに熱をあげ始め、日本代表の試合があるときは必ず私が一人暮らしをするマンションにやってきた。私が映画のDVDを観るために奮発して買った、1DKの狭い部屋にはちょっと大きすぎるプラズマテレビが目当てだ。

その日も徹はいつものようにやってきて、いつものようにビールを飲みながら試合を観ていた。サッカーにあまり興味がなく、ビールのおつまみを作ってはそれを運び、キッチンとリビングを行ったり来たりていた私が、その試合は結局日本が勝ったけれど、内容的には徹の満足できるものではなかったらしいと分かるのは、徹が時々画面に向かって叫んぶその声に、怒りや落胆の感情がはっきりと表れていたからだ。「サントスー!」とか、なんとか。

試合が終わりテレビを消した徹は、考え込むように少し黙ったあとで、キッチンで洗い物をする私に元気のない、でも深刻そうな声で聞いた。「なあ、早絵、俺の苗字になるの、嫌か?」。突然のことで驚いて、私は聞き返した。「ねえ、それってもしかして、プロポーズ?」

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